三遊亭圓朝グリム童話を落語にした【死神】の動画と経歴や生い立ち【落語ディーパー!】 




今夜の落語ディーパー!~東出・一之輔の

噺(はなし)のはなし~は。

今年生誕180年になる落語界の

レジェンド・三遊亭圓朝。

そのすごさを柳家喬太郎と語り合うのですが

なんと江戸末期から明治にかけて活躍した落語家さんです。

180年ですからねー

そんな 昔 この方は なんとグリム童話を落語にしちゃいました。

童話を落語に?!なんと題は死神

童話を落語にした人って!どんな落語家さんでしょうか?

今日も興味深々しらべてみました。

落語界のレジェンド・三遊亭圓朝 経歴

初代 .mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}三遊亭(さんゆうてい) .mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}圓朝(えんちょう)

本名 出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)
生年月日 1839年5月13日
没年月日 1900年8月11日(61歳没)
出身地 日本の旗 日本
師匠 2代目 三遊亭圓生
名跡 1. 初代橘家小圓太(1845年 – 1855年)
2. 初代三遊亭圓朝(1855年 – 1900年)
活動期間 1845年 – 1892年
1897年 – 1899年
活動内容 人情噺怪談噺
家族 初代 橘屋圓太郎(父)
所属 落語睦連
三遊派
主な作品
塩原多助一代記』『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』『死神

出典:Wikipedia

江戸時代末期(幕末)から明治に活躍した落語家

グリム童話 『死神の名付けおや』

あらすじ

ある貧乏な男のもとに子が生まれる。

男は名付け親のなり手を捜し街道に出た。悪魔死神と順に出会い、

死神に息子の名付け親になってもらう。


死神は男に、息子が将来金銭的に

成功を収めることを約束する。

成長した息子のもとに死神が現れる。


死神は息子を薬草の群生地に案内し、

「お前が病人の元に呼ばれることがあれば私も付いていこう。

私が横たわる病人の枕元に立っていたら

薬草を飲ませなさい。

その人間の命は助かる。

足下に立ったならその人間の命は私のものだ」と教える。


息子は死神の教えを利用して名医になる。


ある日、国王が病にかかる。

死神は王の足下に立っていたが、息子は死神を騙して王の命を救う。


二度目はないときつく叱られたが、その後王女が病気になり、

息子はまたしても死神を騙してその命を救う。



怒った死神は息子を地獄の洞穴に連れて行く。

そこには人の命を表すろうそくが林立していた。

死神は息子に彼の命のろうそくを見せる。

今にも消えそうな弱々しい炎だった。


息子は大きなろうそくに火を接ぎかえてくれと懇願し

死神はそれを了承するが、

作業をわざと失敗しろうそくの火は消えた。

出典:Wikipedia

このお話を落語にしてしまいました。

最後のローソクのオチ

落語の「死神」の最後はローソクの火を人の命にたとえて、

火が消えると寿命が尽きるという噺である。

ローソクがどのように消えるかというサゲ(オチ)

にはいくつものパターンがあって、

消えると言いながら、前のめりに倒れるのがオーソドックスな形である。

圓生がつくりあげた仕草オチである。


死神が強引に吹き消してしまうのが談志バージョン。

自分のくしゃみでうっかり消してしまうのは小三治バージョン

くしゃみバージョンは多くの噺家がやっている。

いろんなバージョンがあっておもしろいですね。

 

三遊亭圓朝さんの死神です。

どうぞ お楽しみください。

生い立ち

圓朝の父親は橘屋圓太郎といって、

二代目三遊亭圓生の弟子であり音曲師であった。と言うよりも、

放蕩無頼な生活を続けた遊び人だったそうです。

七歳の時に父親の勧めで初めて寄席の高座にのぼった。

父親と同じく圓生の弟子となり、住み込みでの芸の修業生活に入った。

十二歳 商家に奉公(父親が全く家を顧みなかったので、再び落語家をやめた)

歌川国芳の弟子になって画工としての勉強をしたりした。

十四歳の圓朝は、寺の住職になっていた義兄に引き取られ、母親とともにその寺で暮らすことになった。その寺の本堂で、圓朝は本尊を相手にして落語の稽古に励んだ。

(母親は再婚で)9歳上の義兄に落語をやるのなら

「何事においても稽古は大事だが、一心に努めなければ決して上達はしない。

だから、心を統一する修行のためにも、座禅をしなさい」とすすめた。

圓朝はその言葉に従って、十五、六歳の頃、座禅の修行をした。

十七歳の時芝居の世話狂言を模した芝居噺(鳴り物噺とも言う)を始めた。

ここで、画工としての勉強が図らずも大いに役立つことになる。

二十一歳の時についに大きな寄席に出演するチャンスが訪れた

三十一歳で素噺の芸に戻り

五十三歳で寄席出演を退隠

明治33年8月11日 進行性麻痺にて死去 61歳

怪談話

圓朝は怪談話も創作しました。

そして 幽霊話もおおく

「牡丹燈籠」「真景累ケ淵」「死神」などの名作落語を生み出した

三遊亭圓朝はあまたの幽霊画を収集していたそうです。

2019年8月1日(木)〜31日(土)、東京・谷中の全生庵にて、
その圓朝のコレクションを特別公開する
谷中圓朝まつり「幽霊画展」が開催されます。

左から、伊藤晴雨『怪談乳房榎図』、池田綾岡『皿屋敷』、鰭崎英朋『蚊帳の前の幽霊』 すべて全生庵所蔵

園朝の芸風

円朝の芸風について

渋沢栄一さんはその話ぶりも実に上品で他家の落語のように

とうりいっぺんのものではなく

自分自身が涙を流して話したくらいで

従って感銘も深かったと話されています。

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